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挾土秀平氏 サイン入り書籍「のたうつ者」

■展示風景(※クリックすると拡大画像がご覧いただけます。)
挾土秀平氏「土と水陽」   挾土秀平氏「土と水陽」   挾土秀平氏「土と水陽」
挾土秀平氏「土と水陽」   挾土秀平氏「土と水陽」   挾土秀平氏「土と水陽」



いつだったか・・・・?「ソフィーの世界」という本が世界中に反響を呼び、めったに本など読まない自分が、なぜかその本を買い求めて枕元に置き、理解できないままに数ページずつ、ただ活字を追っていた日々があった。その内容は、人間が時代ごとに何を考え、行動してきたか、過去の肯定と否定を繰り返してきた、考え方の進化(哲学)を延々と書き綴ったもので、エデンの園から始まって、ソクラテス・・ヘレニズム・・ルネッサンス・・マルクス・・ビックバン、…そして私達の時代、≪21世紀の重要な哲学のひとつはエコロジーだ≫ というキーワードの投げかけで締めくくられている。 そんな中で・・・・泥の詩人こと小林澄夫編集長が、ある時、つぶやいた言葉が思い出されて重なる。『今や自然界の中では、人間が生きていること自体が、<反自然>。すでに破壊であり、人間が生きているということは、常に物を生み出し、消費し続けていることで、生きている限りその繰り返しをしながら、行き着くところまで、進まずにはいられない宿命をもっていると、いわざるを得ない。

それが近代に入って、社会は、ますます無機質で表面的な方向に進み、すべてを数値や合理性に置き換えることでしか、 測れないようになってしまったことは、人間が自然を知り、自然を体験していた頃から、いかに離れてしまったかを象徴している。 まさに、自然界の主人の考え方が、命の惑星全体を生命の危機にさらすかもしれず、人類が行き着くところは、もう目前なのかもしれないね・・・・』

この数年、異常気象がいたるところで発生し、地球温暖化が、自分たちの目や肌で感じとれる現実に直面している中で、今やっと、世界は二酸化炭素排出量の抑制について、話し合いの場をつくり、地球規模の環境問題に取り組もうとしている。 この問題は、2008年の洞爺湖サミットでの議題のひとつにもなっていて、 自分は偶然にも、会場となったゼロエミッションハウスの空間と、そこで、もともと世界はひとつだったという、思いを込めたテーブルを想像してつくり、そのテーブルについた各国のファーストレディを前に、 <人間の手の平に乗った地球>を意図とした、【土】100%の泥ダンゴで、パフォーマンスをする経験をした。
しかしサミットでの首脳の話し合いは、先進国と発展途上国の主張が二分化し、大きく開いた平行線のままで終わってしまう・・・。この深刻な環境問題を話し合う大前提には、まず、何よりも地球(自然)を中心に考えなくてはならないのは誰もが 判っていても、結局のところは、自分達の立場や権利というエコノミー(経済)を優先させた人間主義の考え方でしか、エコロジーを話し合うことが出来なかったのである。

ここで・・・・・こうした経緯を冷静に考えてみると・・・・・ 自分たちの社会は、いまや、共存とは正反対にある反自然の枠組みの中で、成り立っている現実。 TVコマーシャルや新聞広告などにみる ≪○○はCO2を○%削減しました・・・≫という、 環境問題の解決に貢献しているとか、実績を示したという企業のキャッチフレーズも、やはり全てが市場原理に基づいた表面的なコメントにしか聞こえず、人間中心主義が本当のところであり、 結局は、エコロジーという言葉が、エコノミーが生み出した商品のようにしか思えてこない。 しかし、企業も自分自身も、いまの生活のスタイルを急激に変えることなど、現実には、不可能な意識の中で生きていることを批判はできず、誰も反論できない。

いつか小林氏から教えてもらったドイツの建築家の思想。 自然には、二つの自然があって、 一つは《環境としての自然》。もう一つは《人間の自然》。人間の自然とは《健康と、すこやかで自由な心》といったもの。 そうして、この二つの自然の間の調和がエコロジーの本質であって、どちらか一方が欠けても真の人間の幸福はありえない。】 彼は、エコロジカルな建築のために次の四つの条件をあげたという。

1. 太陽熱や風や水やあるいは再生可能な自然エネルギーの使用。特に人間の身体エネルギーの活用
2. その土地にある素材、木や草や土や石を活用すること。それらをその土地の小さな市場でまかない、大きな市場、遠い市場からなるべく求めないこと。
3. もともとその土地にあった伝統的な技術や技法を持った職人と対話し、討論を重ねながら、その新しい可能性を見い出していくこと。
4. その土地の地霊≪ゲニウス・ロキ≫を感じ取ること。

地霊とは、その土地の持っている光や風や雨や植物や生物の気配であり、そうした気配、気の流れといってよいものを絶ち切らないようにすると。建物を建てることはその土地を傷つけることであるから、その傷を癒すその土地の材料を使用するべきで、その土地の持つ地霊を感受する心が、たいせつである。

そして小林氏はこう続ける。
【いわば地霊というものは、われわれ東アジアでいう五行の思想に通ずるものであろう。 我々を取り巻く宇宙(環境)は、地水火風空の五元素の発する気のたえざる流れであり、その気の流れを断ち切らないかぎり、ひとはこの宇宙の元気の中で幸福に生きられるのだと。 たぶん、エコロジーやエコハウスといったカッコよい言葉ではなく、地霊を感じ取るせんさいな感受性が、 小さきもの、かよわきもの、草や木や石や虫や魚や鳥や獣の声を聴き、風や陽の光や波のざわめきに、心踊る魂が必要なのだろう。】・・・と。

私は思う・・・・。 いま、自分たちがどんな判断をするか?どんな選択をするか? その選択こそが、上質であるとか?品格である事に通じるのではないか。

企業も個人も、経済社会における利益を求め進んでゆくなかにも、でも、もう一方の違うところで、 いかに、みずみずしい感情や繊細な感受性に基づいて、行動している側面を持てるかが、問われているのだと思える。

振り返ってみると、自分の行ってきた独自のものづくりは、そのひとつひとつが買い入れた製品ではなく、 土と水を中心に、野や山や川、海から人間の手で採取できる、自然の原料で成り立ってきた。 それらを、目分量や塩梅加減を働かせながら組み合わせ、水で混ぜ合わせてつなぎ、形にする。 熱を加えるわけでも、大きな動力を必要とするわけでもない。 あとは風や太陽の熱で乾き、固まるのを、自然にゆだねて待つだけである。つまり基本的には、人間と風と太陽のエネルギーだけで形づくられている。 素材が素材のまま変わらない・・・・変わらないから、元に戻すこともできるし、何度でも、同じ形として生まれ変わらせることができる。 極端に言えば、形づくっているけれども、つくっていない、自然のままがデザイン化した表現だといえる。

今後、叶うなら、この自分のものづくりを、ありふれた自然の美しい風景の写真と、感情的な言葉とを一体化させた、みずみずしさを持って、人間と自然を結ぶような、そんな個展を開けないものかと、考えている。